シアトル生活はじめました

20年以上すんだ東海岸から西海岸に引っ越してきました。MicrosoftのUniversal Storeで働いてます。

子育ては「点」ではなく「線と面」で考える~ 子供を育てて気づいたこと

双子の娘は14歳です。身長では妻が一番低くなってしまったし、私と三人で映画「呪怨」を観て楽しんだり(妻は辞退)、コーヒーを飲み始めたり、私よりずっと上手にイラストを描いたり楽器を演奏したり、2人ともずいぶんと成長しました。これからもさらに大人の成分が増えていって、いつかすてきな女性になることでしょう。

親として、子供の成長に関わっていく中で、私が学んだことは数知れずなんですが、特に子育てに対する親の心構えと態度について気づいたことがあるので、彼女たちが成長してしまう前に書いておこうとおもいました。

子供は毎日の生活で、いろんな行動で親をイライラさせることが多いです。その領域は広大です。脱いだ服を置きっぱなし、ごはんの食べ方が汚い、お風呂やシャワーに入らない(または入るけど後片付けしない)、約束を破ってテレビを見る、約束を破ってゲームをする、お出かけの準備が遅い、学校に遅刻しそうになる、部屋をかたずけない、約束を破って遊ぶ、ケンカする、人を傷つける、勉強しない、宿題しない、嘘をつく、ゲストにあいさつしない、楽器の練習をしない、スポーツの練習をしない・・・とてもすべてを挙げることは出来ません。

そういう「イライラさせる事件・事象」を「点」として考えると、私はその「点」だけを見て、それは良くないと判断して、注意したり叱ったりしてました。「その食べ方はマナーがなってない!」とか「12時に消灯の約束なのにまだ起きてる!」とか。親も人なので、イラついた感情に支配されて対応すると「なぜその時点でそれが出来ないのか?!」っと怒ってしまいがちだと思うんです。

私は割とユルい方の親だと思いますが、それでも自分の育った環境によっては「これだけは許せない」って部分がいくつか出てきますよね。そういう領域では、ちょっと過剰気味に怒ったりしてました。そして、夫婦の間でも育った環境が異なるので、お互い「なんであんなに怒るかな?」って思ったりすることもあります。なので、怒るポイントって家族それぞれ、夫婦それぞれで、それって子供から見たら結構大変なことです。よそんちでは怒られないようなことなのに、うちではなぜか怒られる、みたいなことがるわけです。

そして、子育てが進んでいくうちに気づいたのが「子供は時が経つに連れてどんどん自分でちゃんと出来るようになっていく」ということです。いくつもの点が伸びていって「線」になり、その線が少しずつ修正しながら好ましいとされる状態に近づいていく、という感じですかね。

これに気づくきっかけというか最大の要因は妻の方針です。妻は僕よりも「線」や「面」で子供を見ていたようで「大きくなったらそのうちしなくなるよ」みたいに余裕をもって接していることが多かったです。自分からしたら「今ちゃんときつく言っておかないと!」って思うようなシーンでも、妻は普通にしてました。また、自分自身も「子供は神様からの授かりもの」ではなく「子供は神様からの預かりもの」という風に考えていて、「自分のもの」ではなくて、行ってみれば里親とか留学生を預かる家庭みたいな「成長をサポートする役目」として考えていたので、自分の考えかたをなるべく押し付けないように、そして本人の個性を尊重するように努力してました。

14歳の娘と生活をしていると、いろんな線がすごく良くなっているのに驚かされます。お行儀よく食事をしていたり、部屋を自分で整理整頓していたり、夜遅くまで自ら宿題を終わらせたり、自分で楽器の練習をしたり。学校の先生に「よく手伝ってくれてありがたいです」って言われたりすると、親には見えていない線も育っているんだ、と感心させられます。

もちろん、まだ出来てないこととかもたくさんありますが、それはその線を作る「点」が調整をしている段階なだけで、それがその線全体を決定しているわけではないんですね。なので、まだうまく出来ていないことが事象として起こった時、過剰反応せずに「目指すべきありかた」を再確認する程度で十分なんだなと心底感じるようになりました。

子供目線で考えると、線で見てくれることは「親が自分に対して長期的に関心を持ってくれている」というメッセージになって、親子関係をより建設的なものにすると思うのです。逆に点だけで、その場その場で注意されたり叱ったりされて、その関わりが断続的であったり、場合によっては毎回怒られるポイントがずれていたりしたら、親に対する信頼を構築するのが難しくなってくるかもしれません。

では具体的にどうすればいいかというと、線として見るとうことはつまり「その点」での評価や対応に「余裕を持たせる」ということだと思います。叱る加減を10から5、説教の時間を5分から2分(ところで私は自分なりの「お説教ルール」があって「1.出来るだけ1分以内、2.前に叱ったことを持ち出さないでその場限り、3.終わったら雰囲気を通常に戻して引きずらない」みたいなのがあります)、求める要求のレベル感を10から7ぐらい、までにするのです。「あらあらまぁまぁ、次回はもうちょっと出来るように頑張ろうね~」ぐらいの感覚。

時間が経てば点は自ずと完全していくし、そうなるとその線がしっかりと確立されていきます。そういう線がいくつも完成に近づいていくと「人格」としての「面」もどんどんと完成に近づいていきます。親は「面」レベルで子供を見ていけば、どういう線をより伸ばし、どういう線は適当にほっておいてもいい、といった戦略レベルでの判断が出来ます。

我が家では、例えば「宿題は本人に100%任せる。その結果は本人が受けるだけ」という方針があります。「宿題という線」に関してはユルいです。あと、成績という線もユル目です。最近ひとりがほぼ全てA評価なのにひとつだけD評価というんがありました。我が家のこの「線」での考え方は「ちょうどいいね」です。自分が全部A評価を取りたいと思えば実現出来ることですから。(がっつり自慢なんですが私も大学院はストレートAで、学部も評価があるクラスでは一度だけ寝坊でミッドタームを逃してB+があるだけです。)本人が主体的にやりたいと思えば実現する、という確信は自分の中にあるわけです。

逆に、毎回しっかりと注意しなくてはいけない「点」に関しては「家族会議」などを使ってしっかりと時間を設けて子供たちと話し合うようにしています。その線に関しては今この時点でしっかりとしないといけないこと、例えば「嘘をつかない」とか「人を傷つけない」などです。なんでも間でも余裕を持たせてグダグダ人間に育てるのも良くないですから。こうやってメリハリをつけて接していると、子供にも「最低限求められている原則的なふるまい」などが伝わりやすいと思うんです。なんでもかんでも全て100点を求めると、子供は何が大切なのか、優先順位を付けて考える習慣が育たないと思うのです。

点ごとでの子供への要求に「余裕」を持たせることで「自分の人生は自分で決定するものなんだ」という意識が育つと思います。ものごとの「良し悪し」の評価には幅があって、自分はどういうものが良いで、どういうものが悪いのか、自分で考えるようになると思うのです。

私はこういう方針をひっくるめて「だいたいの法則」と言って自分で意識するようにしてます。「だいたい出来ていればいい」というスタンスです。そうすると時間が経てばよい方向に育っていく、という確信を持つことです。

最後に、この「だいたいの法則」は自分自身にとっても大切かもしれません。親も成長の過程の途中です。完成された人間なんてひとりもいないわけですから。自分も「やらかすこと」がしょっちゅうです。何か失敗した、間違えた、勘違いした、そういう「点」に対して、すこし余裕を持って自己判定をするのです。もちろん、成長した大人なので他人に迷惑が掛かるような事象で「だいたいでいいでしょ」というのは身勝手になりますが、例えば自分が掲げた目標でダイエットだったり何かの資格の取得であったり、そういうゴールがある場合、あまり自分で自分に落胆しすぎないようにするのもひとつの方法だと思います。

親も子供も、ちょっと生まれてくる時間がずれた人間です。そういう風に考えて子供と接していると、子供が親を応援してくれたり、そういうお互いに尊重できるような関係になると思うのです。