最近小学6年生の双子の娘たちに伝えてあること
- 宿題も勉強もパスするギリギリ程度でいい
- やらなくてもスルー出来そうなのはしなくてもいいし、むしろ見極めて出来るだけだけやらないように努力しよう
- テストは100点満点を目指さなくていい。70点ぐらいでちょうどいい
- 全体的に成績が悪くても気にしなくていい
- 成績が悪い科目があってもいい
- 留年してもいい
- 好きなこと、好きな科目をみつけてそれを楽しみながら頑張る
だいたいこういう感じの期待値にしてある。
妻と私もおおよそ同意してあるので夫婦でそれぞれ期待値にズレがある、ということはない。
言葉としてそう言うだけで本心としては成績が良くあってほしいとか、リバースサイコロジーで上手いこと勉強するように仕向けているとか、そういうのではなく100%、というとやはり無理があるが、それでもかなり高い強度で「しなくていい。良くなくていい」と思っている。
最近の口癖は「だいたいでいいよ」。
宿題の量が多すぎる
まず、日本語補習校とアメリカの現地校と両方行っているから仕方がないと言えばそれまで。でも、一つしか行ってなくても同じことを言うと思う。
宿題のペース配分とアシストは妻がほぼ100%マネージしてくれている(感謝!)。そんな妻もことあるごとに「多すぎる」と言う。
私が夜10時過ぎに帰ってきたりしたとき、何度かまだ娘たちが宿題をしていた時もある。7時ぐらまで遊んでいた、とかそういうパターンも多いけど、夕方5時ぐらいからしている、なんて場合も何度が遭遇した。
やはり絶対量として、私たちが子供のころに比べて多くなったという印象。
これはどこかで力を抜かないともうず~っと宿題をして子供時代が終わってしまいそうな雰囲気。
ついていけなくなる=悪い?
よく言われるのが「ここを理解していないと次の課題で分からなくなる」
ごもっとも。100%正論。で、実際に全員がついていけるのかというとそれも100%は不可能。ついてこれない子供は出る。それが私たちの子供かもしれない。そこには恐怖がある。わが子が落ちこぼれる、という恐怖。でもそれは本当に良くないことなのか?子供というか、その「人間」の目線まで降りて行って、ある科目がさっぱりわかっていない人間がそこに存在していて、それはダメなのか?ずっとダメなのか?
大人の世界にもある科目がサッパリわからない人はたくさんいる。それで成り立っている。学校教育が終わると「ついていけない」ことが普通になる。
逆にいうと、いろんなストレスをしょい込んで、自分の才能を見つけ出し育てるチャンスを逸してまで、全体的評価として「ついていける」ことが何を差し置いても良いことなのか?そのあたりのことを熟考せず、「とにかく周りがみんなそれを目指しているから」だとしたら、その子供・人間を見ていないと言わざるをえない。
私は娘がいくつかの科目で「ついていけない」状況になったとしても構わないと思っている。
くだらない成績のつけ方
FBなんかでよく出回っている内容。「12個入りの卵を三つ買うといくつ?」を「3x12」にするとバツになるやつ。あと、今日FBで見かけたのが「地上のモノの影が動くのはなぜ?」で「地球が太陽の周りを回っているから」でバツになるやつ。
いろいろと指導要領など大人の事情があるのでしょう。そういうのに食って掛かるつもりは無いですし、それなりにマニュアル化して評価できるようにしてこそ、現場の現状把握や改善もできるのでしょう。それはそれで仕方がないと思います。
だから子供の成長の観点からもそれなりに「そういう評価の仕方」を評価させていただき、それはくだらないと感じるので「そういう評価の産物としての成績」というものも同様にそれほど気にするものではない、と理解している。
もちろん、すべての成績のつけ方が悪いとは思わないし実際そうではないだろうけれど、この辺りのバランスを調整させていただくだけのこと。
あまり気にしなくて良いと。
好きなことをする時間を多くする
私が、娘たちが没頭しているのを見て「よしよし」と感心し、褒めて、材料その他のリソースが必要かどうかを聞くアクティビティがある。
- オーブンで焼く粘土細工
- 紙粘土細工
- 消しゴムハンコ
- スライム作り
- バイオリン
- 体操
- バレエ
- ハリポタ読書
- ハンガーゲーム読書
- ワンピース読書?
- YouTube鑑賞
- YouTube動画投稿
- Music.ly
- Squishy遊び
- スケボー
- 料理の手伝い
- etc
工作などは道具が大切なのでよく注意をして見ている。手や体、目や耳にバランス、様々な視聴覚器官を使うアクティビティは「サッカー好き?」とか「空手好き?」とか「バスケ好き?」とかちょいちょい話題を振って温度を確認するようにしている。
そういえば一人はスケートがしたい、もう一人はアーチェリーやってみたい、そう言っていた。なんでもかんでも出来る時間とお金は無いので、ここもバランスを取らないといけないけど、興味の調査はタダでいつでもできる。
すべてに通じる共通点は「本人がやりたい」こと、そして「楽しんでいる」こと。これからもリストは増えていくと思うし、いくつかは飽きてしまうだろうし、ずっとやり続けるものもあるかもしれない。本人も家族も気づいていない適性も存在するかもしれない。でも大切なのは本人がやりたい、という欲求の持続を手伝い、そこから生まれるパワーを本人が引き出せる手伝いをすること。例えば道具は足りているか聞いたり、やり方の工夫を話し合ったり、本やストーリーの内容を食事の時に聞いてみたり、うまく行けば「すごい!」といって褒める。
送り出す時は「楽しんで!」と言うようにしている。「がんばって!」とはほとんど言わなくなった。頑張る必要はないし、頑張るのがゴールではない。ただ楽しんでいる過程の一部として頑張るのであれば大いに頑張ればいい、ということ。
家族と笑う時間
これはいろいろと大人は忙しいので実際、難しいことだと思う。子供も勉強で忙しいとなるともっと難しくなる。人間は笑うことができる数少ない動物(チンパンジーも笑るらしいね)。それは疲れやストレスを忘れさせてくれる強力なツール、使わない手はない。
我が家はケーブルテレビ等はない。テレビのつけっぱなしというのが技術的に出来ない。だからわりと「シーン」としている。そうなると家族同士の会話が全員に聞こえるような状態になる。だれかが面白いエピソードを言ったり、くだらない踊りを踊ったり、面白い動画を見せあいこしたり。お皿を割ったり飲み物をこぼしたりのアクシデントもしょっちゅう。そういうイベントが発生するたびに「笑い」に結びつける工夫を考えると楽しい。この気まずい状況をどうやったら笑いに変えられるか?! 爆笑になったりしたら満点です。
この辺りは私は妻に学びました。クソがつくぐらいの真面目人間ですが、最近は昔は怒っていたようなことも一息ついて「ま、いっか」と思うようにしてます。
最近では私は「いじられキャラ」になってきて、お父さんの威厳みたいなのは皆無。そのぐらいがちょうどいいみたい。
出来るだけ「その人そのもの」に育っていければいい
もし本人の希望の中に「宿題を完璧にし、テストも全部100点な自分」というのであればそれは大賛成。そういう子供もいるでしょうし、娘たちも割と本気で「このテストは100点とりたい」っとか言っているケースもあったりする。だからイメージする自分の中に成績がトップクラス!な自分があるならば、そうすればいいと思う。
そこに親や教師や社会が望むイメージを押し付けることが良いことなのだろうか、ということ。
ついていけてなかったものがあったとしても、どこかで目覚めるかもしれない。私自身、コンピューターサイエンスに目覚めたのは24・5歳ぐらいだし、周りにも30歳過ぎて医者になるといってなった人もいる(年齢遅くして自己実現するのはアメリカ人に多い)
自己実現への道筋は規格化されたパターンのものだけではない。むしろ無数のパターンがあってこそ自然。
これってゆとりなのかな?
ゆとり教育は世代ではないし、子供もいなかったから分からない。おそらくどこか似ているような感じもするけど、でも違うような気もする。すべての科目を緩めるというわけではなく、余力を生み、本当に好きだと思える分野は徹底的にやってみよう、という方針。
これが正しいのかどうか分からない。おすすめ出来るものかどうかも分からないし、他の家庭がどうであろうが根本的には無関係。ただ、子供達をストレスから解放するという意味では集団的なアプローチの方が個別的アプローチより効果は上がるだろうと感じる。少なくとも子供たちに完璧を要求する頻度と度合いを減らしませんか?