シアトル生活はじめました

20年以上すんだ東海岸から西海岸に引っ越してきました。MicrosoftのUniversal Storeで働いてます。

親は子供より偉いという思い込みはやめましょう

子供と親の年齢差はたかだか平均的に言って30年程度。何を根拠に「親の方が子供より偉い」と思ってしまうのでしょうか。この勘違いは、親だけでなく子供にもありますが、子供は自らそう判断したのではなく、自分の親や社会一般の親が自分とその子供達に接する態度を見て、そのように思い込んでいるだけです。この認識の問題の根は親の方にあるのは間違いなさそうです。

親は「人生の先輩」であり、子供がまだこの社会での生き方を知らない間は、子供に模範を示してたり、生き方のノウハウを教えたりする役割を持ちます。「教える・教わる」の立場の違いを考えると、親の方が偉いと錯覚してしまうのは自然かも知れません。ですが、立場の違いはたまたまそうだったという話であって、本質的に親が子供より偉いという風にはならないと思います。もちろん、子供が自然に親に対して尊敬の念をベースにして、偉いと感じるのは全く問題ないと思います。

そもそも「偉い」とはどういう意味なのでしょう。「偉い人、偉人、偉かったね」といった表現を考えてみると「凄いことをしている人、もしくは成し遂げた人」といったニュアンスを感じます。なんらかの実績を根拠に、偉いとされているようです。ノーベル賞を受賞した人を偉いと見るのは間違ってはないでしょう。尊敬に値する人格を持つ人や、人間の限界を押し広げた人も、同様に偉いと言われますが、それも間違いではなさそうです。人権活動家や冒険家がそれに当てはまるでしょう。ちなみに英語に訳すとどうなるかというと「great 」というような、日本語でいう「凄い」に違いニュアンスの言葉ぐらいしか思い当たりません。日本語の「偉い」に含まれているような「上の立場にいる」という意味合いがある英単語は見つかりません。ですから、偉いという言葉のニュアンスは日本語独特であり、日本の社会の特徴的な概念なのかもしれないと感じます。

では日本人の親がよく「自分は子供より偉い」と認識してしまう理由にはどういうものがあるのでしょう。まず、親は子供に経済的な支援をします。衣食住を提供します。さらに日常的にアドバイスを無償で与えますから、コンサルタントのサービスも提供しています。サービスといえば他にも、レジャー施設や慰安旅行に無償で招待し、費用も全額負担してあげます。教育への投資も、税金で無償で得られる義務教育サービスの他に、私塾へ通う費用や時にはその送迎サービスを与えます。勉学以外の技能、例えば音楽や運動の分野での能力開発にかかる費用も負担します。クリスマスやお正月などの祝日には豪勢な食事だけでなく、金品を授与したりもします。病気になれば看護サービス、さらに悩み事相談などのメンタルケアも行う親もいます。これだけのことを親は子供にしてあげるので、子供が親を偉いと思うのは当然ですよね?

ところが、これらのサービスは親の義務でもあり役割でもあって、それは当たり前のものなんですよね。もちろん、世の中の親がひとり残らず「自分が子供より偉いのは、そういうことをやってあげてるからだ」なんて本気で思ってるわけではありません。親の中には、子供に対する奉仕と自己犠牲が喜びであるという人がほとんどでしょう。愛情の実践なので、奉仕という表現すら不適切だと感じる親がほとんどでしょう。ですが、親の中に少しでもそういうことをしてあげてるから「親の私は子供のあなたよりも立場としては上、つまり偉い」っと思っているとしたらそれはとんでもない勘違いだと思うのです。

「誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ?」ってセリフ、昭和な響きです。今は随分と廃れてしまった表現だと思いますし、もう使われていないと願いたいです。「良い学校に行かせてあげたのに」とか「人並み以上の暮らしをさせてきたのに何が不満なんだ?」っというような言葉を口に出す人は要注意です。そういう構図が心に浮かぶ人は、単なる「great 」より上位に位置する「関係上の偉さ」を無意識に感じていて、それが当然だという錯覚に気付いていない可能性が高いと思います。

「親は子供より偉い」と根拠なく錯覚している親は、いつか現実を突きつけられます。子供も次第に洗脳から解放されます。現実として、親も子供も単に「社会に参加するタイミングが違っていた、そして親は役割を実行していただけ」だと気付きます。もちろん、子供は親の純粋な「自分に向けられる愛情の有無とその度合い」も直感的に理解しますから、親の「愛情をベースにした奉仕」に気づいて感謝の念を増す、ということもあるでしょう。どちらにしろ「親と子供の関係」が子供がある程度の成長に達すると調整・正常化されます。その時は必ずやってきます。

「正常な関係にする調整」が将来必ずやってくるのなら、もう今の時点で正常な関係を子供と持つというのはどうでしょう?この正常な関係はつまり「親は子供より偉い」という錯覚を捨てることを含みます。親は立場的に子供より特段偉い、というわけでもなく、むしろ平等であり、子供が成長するまでの間の特殊な期間だけ、偉いと錯覚してしまいがちな関係がある、というだけのことです。

私と妻は、この考え方をもとに子供と接しています。特に今はティーンエイジャーなので、つとめて意識的に、親も子も同じ社会を構成する人間であり、子供は他の社会構成員(友達、同僚、他の大人)と同じぐらい尊重されるべきだと考えながら接しています。

例えば、私の友達が私と違う意見を言ったとしたら、それを尊重します。「なるほど、そこは私と考え方が違いますね。そういう見方も確かにありますね」といった反応を示します。否定や、その考えを改めさせよう(ましてや自分の考えと同じにさせよう)などとは決して思いません。(ところで残念ながら大人同士の関係でも、自分の意見を人に押し付けようとする人もいます。その人はまだ成長の過程にいます)。それと同等の尊重を、子供に対して持ちます。

子供が自分と違う意見、違う選択、違う考え、違う生き方を選んだとしても、それは尊重されるべき事のはずです。決して「おまえの意見は間違ってる(実は単に自分の意見と違うだけ)」とか「お前の選んだ選択肢は間違いだ(実はまたまた自分だったら選ばないことを子供が選んだだけ)」とか、「お前の生き方はおかしい(本来、子供の人生は子供のもの。親は自分の人生を行きれば良いだけの話)」とか、そういう風に言う親が少なからずいるようです。しかし、そういう親の意向を子供に無理強いする権利は、親を含む全ての他人にはないと思うのです。本人が自己決定する権利があると思うのです。そしてその権利は親も・・いえ、特に親が、尊重してあげなければならないと思うのです。

もちろん、親や大人は人生を数十年先に体験してきたので、そこで学んだ事を子供に参考材料としてシェアするのはとても良いことです。そういった情報のシェアとコミュニケーションは、親が子供にしてあげられることの貴重なことのひとつです。「子供が自分と違う」ということは、わざわざ言葉にする必要すらないぐらい当たり前の事です。ですから、まず原則として子供の人生の自由を完全に尊重し、同時に成長の途中で発生する制限(法律上、お酒やタバコを飲めないなど)に関しては、やや強い強制力を持って臨み、人生を生きるガイドの役割に徹するべきだと思うのです。ですが、繰り返しになりますが「親がいかに子供より偉いか」という類のコミュニケーションはまったく要らないのです。

子供を尊重すると、子供は親と一緒に居ることを嫌がりません。子供が、いつどのように学校の課題・宿題をするかとか、どういう課外活動(習い事など)をするかとか、どういう友達と付き合うかとか、1日をどのようなスケジュールで過ごすかあ、どのように自分のお小遣いを使うか、とかの選択に関して、一定のガイドライン(法律)の内にある限りは最大限、尊重してあげます。もちろん、これは年齢にもよるので、まだ右も左も分からない年齢の子供には、やや自由の度合いを下げて、親がある程度レールを敷いてあげます。補助輪付きでスタートして、少ししたらそれを外していく感じです。

例えば、我が家では中学生になったぐらいからゲームの制限はありません。いつ、何時にどのぐらいの長さでゲームをするかは自由です(ただし、オンラインゲーム等での外部との関わりについて危険がないかは確認しますし、子供とそのリスクについてはコミュニケーションします)。1日にゲームは2時間まで、とかいった制限ルールはありません。朝までスプラトゥーンをやってるのを見たことあります。自分で決めています。自分で決めると、感情に流されてとんでもない時間にゲームをやったりしますが、その反動で学校で眠くて仕方ないとか、調子を崩すとかそういう経験をして、自分で常識的な時間にしていくようです。自ら学んだ知恵は本物ですから、これは投資と同じです。

あと、余談ですが私自身夜遅くまでゲームをしたりしますが、それも本人の自由ということで子供もそういう親を見ても特に何も感じません。もしこれが、親が子供にだけゲーム時間ルールを設定していたら、子供は強い不満を感じます。それが、親をネガティブに捉える要因になってしまうかもしれません。親だけが「特別ルールを特権として持てる」という印象を子供が持つと、将来その子供は親になった時に、自分の番が来たと思って不公平な親子関係を作るかもしれません。

ゲームを例にしたついでに、家族でゲームを楽しむ事もあります。そもそも私は子供達が小さい頃はマインクラフトを一緒にやっていました。ワールドに、ジェットコースターやお化け屋敷を立てたり、みんなでゾンビと戦ったりしました。最近はマイクラダンジョンに妻と息子たちと4人でパーティを組んで探検したりします。今月は鬼滅の刃のゲーム、エピソードひとつづつ、順番でクリアしていますが、累を倒した時は全員が万歳をしたものです。ビレッジは娘達は怖いから自分はやりたくないといいつつ、私がプレイして2人は実況を見て楽しんでいます。ゲームはただの一例ですが、親と子供が一緒に楽しめることはなにもディズニーランドだけでなく、家にいて出来ることでいくらでもあるのです。

話を戻します。「親が子供より偉い」というポジションがある状態で、親子・家族みんなで楽しむのは不可能ではないけれど、その空気は少し冷めた感じになるのではないでしょうか。「家族サービス」という言葉はもしかしたら、そういう少し冷めた、実務的な雰囲気を表しているのかもしれません。こういった親子の関係性がある状態で、親が子供に配慮すること、最近の言葉で言うと「忖度」することは、無意味ですし、子供を興醒めさせます。子供は普段と違う対応を不思議がり、やがて真意を疑い始めます。仮に親が純粋に子供が楽しめるようにしたとしても、子供は普段のマウンティングとのギャップを鋭く感じ取ります。そんな白々し親の迎合を子供は拒絶する事もあるでしょう。そういう時は親も訳がわからず混乱することもあるでしょう。そういう時こそ、一歩下がって「親子の関係性」を見直すべきです。「親が子供より偉い」という構図を押し付けてなかったか。本当の意味で、子供の個性を尊重してきたか。子供が自分自身を知る作業を妨害していないか(例えば失敗を通して学ぶ機会を、答えを教えることによって奪っていないか)、一度冷静に考えて見るべきです。

子供との関係性を正常化する方法は簡単です。子供とそのことについて話し合うだけです。子供と話し合う?っと驚いたとしたらあなたは親と子供が平等であるべきだということに気付いていなかったかもしれません。子供とは話し合いが出来るのです。もちろん大人との話し合いとは少し違うかもしれませんが、子供と意思疎通することは可能なばかりでなく、勤めて普段からするべきことなのです。人生の生き方というトピックで子供と話すことは、メタ思考を鍛えることにもなります。お茶菓子を食べながら、子供が最近どういう選択をしたか、それをどう感じているか、どのようか結果になりそうか、聴くだけで良いのです。

絶対にやってはいけないのが「親が子供の選択を評価する」ことです。評価は子供が自分で、自分を基準にするべきもので、そのように教えてあげるべきです。同時に親は持論があるならそれを子供とシェアすべきです。そうすることで子供に別の視点を提供出来ます。ですが、決して評価したり、その評価を認めさせようとしてはいけないのです。

子供の決断を、十分な説明もなく無効にしてしまうのは最悪です。子供のその選択が好ましくない結果になる可能性が高いとしても、原則その決断を支持し、その判断に親なりの材料を与えるべきです。「とにかくダメ」というのが最悪で、その説明に「親の言うことは無条件に聞きなさい」というメッセージはさらに最悪の上塗りでさ。そういう親の言動は、親の方が偉いので子供をマウンティングできる、というシグナルとして解釈されてしまいます。人は誰だって自分をマウンティングして来る人と一緒にいたいなどとは思いません。

もちろん子供が無謀な選択をし、それが命や安全に関わるのであれば、必死の説得と説明をすべきです。子供は理解してくれると信じるべきです。そういう努力を親がすることなく、無条件に否定すると、子供は親から自分の決断を隠そうとするようになるかもしれません。

親と子供は「親子」であると同時に、今はそうではないかもしれないけれど「将来長く付き合っていける親友」になる可能性があるのです。現に、17歳になった私たちの双子の娘は、様々な分野でとっくに親を追い抜き、はるか彼方で活躍し始めています。親よりも上手にやってのける事柄が増え、親が失敗した時など慰めてくれたりもします。そういう関係に自然になれたのは、我が家で親は子供より偉いという「構図」を作らなかった事が大きいと感じます。

親の喜びは「子供が自分の適性を、自ら発掘し育てて、子供のポテンシャルを可能な限り発揮できる事」だと思います。親が子供より偉いと思わせる(錯覚させる)ための労力は無駄で、親にとっても子供にとっても何の役にも立たないのです。私はそう思います。