シアトル生活はじめました

20年以上すんだ東海岸から西海岸に引っ越してきました。MicrosoftのUniversal Storeで働いてます。

そろそろ胃がんと戦った母の誕生日だ

 去年の今頃はちょうどホスピスの母の病室に寝泊まりしてました。
 年が明けてすぐのころ、お医者さんは、1月17日の誕生日まで持つかどうかわかりません、という風に家族には言っていたらしい。だけど、本人は誕生日まで生きる、というゴールをしっかりと設定して、それをきっちり達成しました。
 私が福岡に帰って、母の病室の脇の簡易ベッドで寝泊まりするようになったのは年が明けてすぐでした。黄疸が出ていて顔色が黄色かったけど、しっかりと話も出来るし、アメリカの僕の家族の様子を聞いたり、僕に友達に合うように勧めたり、いつものおふくろでした。
 看護師さんたちに向かって、「夜中に忍者が来るのよ」と真顔でいいだして、なんのことかと思ったら、この忍者とは、夜中に床ずれ防止のためにやってくる手袋をはめた二人組の看護師さんたちのことで、本人たちに向かって冗談をかましてたというわけですww
 最初はトイレにも自分で行けてたけど、僕が見ている間にあれよあれよと車イスでしか行けなくなり、車イスに乗るのも自分ではできなくなり、あっという間に体力が落ちていくのを見ました。お風呂が楽しみだったみたいだけど、しばらくするとお風呂そのものが負担になってきて「今日はやめとこうかね」と言うようになり、しだいにそれさえ言わなくなりました。
 食事の量がどんどん減っていくのを思い出します。このころは食事はほんとに、ほんとに雀の涙ほど、ティースプーン一杯あるかないかぐらいになってました。飲み込むこと事態がつらいらしく、スプーンの中でスープと固形の食べ物を混ぜ、それを食べるという感じなっていきました。それでも人は食事を取る、という儀式を続けることで、生きている証にしているんだなと感じました。
 ホスピスの食事サービスを終了してもらう数日前は、食べたいものを指させば、僕が口に入れてあげるよ、ってことで「(これ)!」「はい、どうぞ」「(これ)!」「はい、どうぞ」みたいなやり取り。なんとなくだけど、おふくろはこのやり取りを楽しんでた様子でした。ケンカばっかりしてた息子が最後にやっと完全に自分の言うことを聞くんで、気分良かったのかなww
 息子とはケンカばかりでしたが、友達がめちゃくちゃ多い人で。お好み焼き屋のおばちゃんだったころからのお客さん(今は友達)や、なんやかんやのネットワークで入れ替わり立ち代わり、お見舞いが来てました。北海道に引っ越した方が2回、それも数日隔てて来たのには驚きました。
 誕生日はケーキが食べたいと言っていたので、病室で家族親類とホスピスの方々とお祝い。誕生日当日は、おそらく意識の限界ギリギリだったのかな。でも、みんながハッピーバースデイを歌ってくれたあと、ありがとうと手を合わせてたから、ちゃんと伝わったんで良かった。
 その後は、だんだんと反応がなくなって行って、1日に数回のコミュニケーションになっていったかな。口を閉じて置くのって、それだけでも筋肉を使うんですね。口の中が乾いてつらいらしく、乾燥しないように小さなスプレーで水分で潤してあげることをよくしてました。
 先生が、反応は無くてもちゃんと聞こえてますし、分かりますよ。話しかけてあげてね、と言われたので。私を始め、病室を訪ねる親類や母の友達は、手を握って話をしました。夜、なんどか話しかけている時に、なんとなく目がうるうるしてるような気がしたことが何度かあります。もしかしたら聞こえていたのかなと。
 母は、立つ鳥後を濁さず、を実践してみました。詳細は書きませんが、私がいた時、十数年以上、解決されなかったことを「よし!」っと言って、解いてしまいました。決断力と、最後まで何が一番良いことなのかを考えて行動していました。
 話は前後しますが、母は胃がんステージIVと診断されたあと、がんとともに2年以上しっかり生き、抗がん剤もたしか3つの異なる薬だったかな、を使って生きることを選びました。もちろん、私はずっとそばにいたわけではないので、いつも心穏やかで、というわけではなかったと思います。近くにいる私の親類が近くでそれを見守り続け、サポートしてくれました。
 私はアメリカに行ってしまった、役に立たない息子でした。二十歳になる前にアメリカに行ってしまって、沢山お金を使って、たまに帰ってきたらケンカして。アメリカに母が遊びに来てもケンカして。「息子評価スケール」があったとしたら落第点だったと思います。なんらこれといった親孝行もしてません。
 それでも、病室で母に、「産んで良かったと誇りに思えるように、社会にお返ししていくからね」というと、あぁ良かった良かったと言ってくれてたんで、すくなくとも産んで育てて後悔はしてないと思います・・・そう願いますw
 会社が、親類の看病に2週間の有給を出してくれるというありがたい福利厚生があり、その2週間をたっぷり使って、母の最期の直前までいましたが、アメリカに帰る日になり、もう反応はなかったんですが、お別れの言葉を掛けて帰りました。
 帰ってきて数日して、親類から息を引き取ったと連絡がありました。
 もうすぐ命日。ただ私は病室で過ごした母の誕生日の17日が印象が強いので、おそらくは今後も「ああ、もうすぐ命日だな」よりも「もうすぐおふくろの誕生日かぁ、『山口百恵ちゃんと同じ誕生日なんよ』って毎年自慢してた、おふくろの誕生日だな~」って思い出すんでしょう。たぶん本人もそういう風に覚えておいてもらうのも悪くないと思ってるんじゃないかな・・。