はじめに
これは自戒を込めて書いています。自分で省察してみると・・・自分は「もらう」ばっかり」の人間なのか、もしくはちゃんと「あげる」もやっているのか、自問しています。いずれにしろ、自分を含めて「人を見る」時の基準として「もらう・あげる」の割合を見ると、子供→大人という成長曲線のどのあたりにいるかが見えるし、例えば人付き合いにおいてのひとつの基準になると思うようになりました。
「もらう」とは?
「もらう」という行為は様々で、単純な例を上げると
お年玉をもらう
迎えに来てもらう
ご飯をおごってもらう
旅行の費用を出してもらう
プレゼントをもらう
物を貸してもらう
肩を揉んでもらう
といったものがある。こういったものは親子や先輩・後輩、そして上司・部下といった関係ではごく自然なことだったりする。きちんとお礼を言えば、それはそれで良好な関係ということで問題がない場合が多い。
では以下のような種類の「もらう」はどうだろうか。
約束の時間に遅刻して、相手に待ってもらう
自分が使った食器を他のだれかに洗ってもらう
一緒に行った旅行の費用を誰かに負担してもらう
いつも自分の話だけを聞いてもらう
いつも自分の主張を認めてもらう
自分の正義を、相手の正義を無視して、認めてもらう
これらは、相手とどのような関係性があったとしても、内在的に好ましくない場合が多いといえる。もちろん、人間は持ちつ持たれつなので、それが絶対的に悪いわけではない。信頼できる人や仲間との間では、たまにはこういった「もらう」が起こることもある。要はバランスの問題であって、お互いまたはグループ内の誰かが飛びぬけて「もらってばっかり」でないなら、全体としては問題ないと思う。自分がもらった分は返す、といった関係であれば調和は保たれる。
マウンティングの本質
マウンティングという文脈で「もらう」を考えてみると、マウンティングとはいったい何かというのがより理解できると感じる。
マウンティングにもいろいろな種類がある。
学歴マウンティング
知識マウンティング
経験値マウンティング
関係者マウンティング
所有物マウンティング
などなど
マウンティングとは「自分の正しさ」を他人に押し付けたり誇示したり認めさせたりすることなので、つまりは「自分をみとめてもらう」というタイプの「もらう」に集約することが出来る。
学歴マウンティングは説明不要だろうが念の為確認すると、例えばどの大学を出たかとか、どんな資格を持っているかを全面に出して、自分の「優位」を相手にみとめてもらおうとする。(ほとんどの場合、これは失敗して逆に「尊敬されない」結果になる)
知識マウンティングは、例えば難しい用語や事実、蘊蓄などを披露して、相手に褒めてもらったり、尊敬してもらったりする。場合によっては相手を困惑させたり、知らないことを認めさせて自分の優位を際立たせようとする。このマウンティングはすぐに人をうんざりさせるので、人はそのようなウンティング状態から脱出して、近寄らないようになる。
経験値マウンティングはやっかいで、何十年の経験があるなどいった基準で自分の正しさや優位を認めさせようする行為。しかしマウンティングの対象になっている人とは、そもそもスタート地点が異なるので(生まれた年齢や始めた時期が異なる)そこに優劣は付けられないはずなのに、それでもマウンティングを取る。そしてやっかいな理由が、相手のこれからの同様の年月を経た時の経験値と比較することが不可能だとうこと。公平にするならそれぞれが同じ年月の経験があってこそだけど、それは物理的に無理。これでマウンティングを取られる人が原則、自分の主張を認めてもらうチャンスは無いし、マウンティングを取る方が自分が絶対に正しいと信じざるを得ない。老害という言葉で要約されることが多い。
関係者マウンティングという言葉はあるのかどうか分からないけど、つまり自分自身ではなく自分の知り合いなどが著名人だったり権威がある時に、それをベースに自分の優位(なにがどう優位なのかは分からない場合が多いが)を相手に認めさせようとする場合のこと。著名人と同じ環境で生きたことを「すごいと思ってもらう」、または「感心してもらう」わけだけど、事実は単なる偶然であって1グラムも価値は無いんだけど、それぐらいしか自尊心の基礎が無い可哀そうな人だとも言える。
所有物マウンティングは消費社会の申し子のようなもので、例えば性能の良い乗り物、高価な衣服、不動産物件などを所有していることを根拠に自分の優位を認めさせたり優越感に浸る行為。大抵は、こちらから聞いてもいないのに共有してくるし、否が応でも見えるのでマウンティングされるしかない場合が多い。本来、人の本質はその人の心、性格、魂、生き様、行動などであって、その人に紐づけされている物理的なものは本質ではないんだけど、それに気づいていない人はこのマウンティングをしがち。この場合も、逆説的に「そのぐらいしか誇るものが無い」ということで、実は自尊心が低い人の場合が多い。
要するに「子供」
子供は様々な面で未成熟なので、大人に依存せざるを得ない。依存とはつまり「もらう」ことであって、それは当然あって然るべき行為・態度である。おこづかいをもらい、学校への送り迎えをしてもらい、ご飯をつくってもらい、いろいろなケアをしてもらう。多くの場合、親や保護者そして社会がそのケアを与え、将来成長した時に次の世代に同様のケアを与える人間に育ってもらうことできちんとバランスが取れている。
問題は、年齢的に「大人」になっているべき人が「もらう」ばかりで、ほとんど「あげる」が無い状態にどとまり、「あげる」主体の大人にシフトすることなく「もらい続ける」場合です。
こういう「子供のような大人」は、実は周りにたくさんいる可能性があり、しかもそれがあまり見えない。というのもそういった「子供のような大人」でも、社会的な大人の定義でいえば十分大人だったりするので、気づかないことが多い。例えば、高等教育を受けて、きちんと仕事もしていて、配偶者や子供がいたりする。税金を納め、それなりの肩書をもち、社会貢献もしている。それだけをみると立派な「大人」に見えるけれど、「もらう」が多い人は実は「子供」です。
子供のような大人はマウンティングを取りがち
マウンティングの本質が「もらう」であるからして、マウンティングを取りたがる人はつまり「子供のような大人」、いや言い換えると「大人のように見える子供」です。マウンティングを取られてうんざりする時、要求の多い子供の対応をしている場合と似たような感覚におちいります。頭に来るとか、怒ってしまうというより、イラっと来る感覚です。頭に来るほど嫌なことをされているわけではないのだけど「自分が正しいことを認めてもらう」ことを要求され、満たされるまでそれが止まない、そんなの時に感じる歯がゆさに通じるものがあります。
こういう場合の対処方は、相手を「他人の子供」だと思って、関わらない。可能ならばそれがベストです。他人の子供で、要求が多い子を前にした時、その子供の成長に関わる義務も責任もないわけです。同時にイライラさせられる必要もないし、それは自分にとって完全に時間の無駄です。なので穏便に、しかし出来るだけ早く距離を置くのが得策でしょう。ですがそういうわけにはいかない、という場合が多いのが悩ましいところです。そういう場合は意識を「自分の成長に向ける」というのがあります。
「あげる」が多い人間になる
「子供のような大人」と関わることで得られるものがあるとしたら、自分はもっと「あげる」人間にならないといけないな、と気づくことです。
「もらう」が多い人を前にして、イラっとしている自分がいる時、それは大抵「投影」である可能性が高い。つまり「自分の中にある、もらうことが多い自分」がその人の中に見えるから、自分はそこまで酷くないと思いたい心理が働いて、その人にたいしてイラつくわけです。つまり「鏡」なのです。
人のふり見て我が身を治せ、ということになるわけです。自分の周りを見渡したとき、いわゆる「出来た人」や「尊敬する人」は、あまりイラっとしている様子がありません。ノーダメージではないのかもしれませんが、それほど強度に影響を受けている感じはありません。それが自分がイラっとした人を前して、同じように関わっていたとしてもです。そういう人になりたいなと思うし、気持ちを「自分はどういう人間になりたいか」という方向に意識を持っていく方が健全だといえるでしょう。
人を育てているか
さらに別の対応もあります。まず「あげる」の根本は「人を育てているか」だと、身近にいて尊敬する人が言っていました。これは学校や教室や道場などで先生や先輩として活動しているか、というものに限定した話ではありません。「人を育てる」という行為は数多くの「あげる」が関わっています。
概念を丁寧に教えてあげる
具体的にやり方を見せてあげる
その人に最も分かりやすい例を示してあげる
間違いを、本人が傷つかないように指摘してあげる
出来るようになるまで待ってあげる
上手に出来たら褒めてあげる
何がわからないのか聞いてあげる
このように、人を育てるには「もらう」ではなく「あげる」が基礎になります。育てる対象は子供に限らず、大人もです。友達や知り合いが「出来ない状態→ 出来る状態」になるのを手助けすることも「人を育てる」に含まれます。有能な上司の条件のひとつ、おそらくは最も重要で意味のある条件がこれであることは誰もが認めるところでしょう。
自分自身も「人を育てているか」という点に着目して、出来るだけそこに繋がるような思考と行動を心がける。
見返りを求めない「あげる」を実践する
究極的に言って、望ましい指針として「利他の精神」があります。自分はと言えば「まだまだ」どころか「全くダメ」というレベルです。だけれども目指すものがはっきりとしているのは悪くはないなとも思うわけです。人間は常に死ぬまで成長を続けるものらしいので、今この瞬間瞬間で、どんな見返りを求めない「あげる」があるかを想像し、出来る時は実践していこうと思うわけです。