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シアトル生活はじめました

20年以上すんだ東海岸から西海岸に引っ越してきました。MicrosoftのUniversal Storeで働いてます。

肉を食べること、そして人はなぜソーシャルネットワークにはまるか・・・

ソーシャルメディア

いったい「肉を食べる」ということはどういうことなのか、っというのをいろいろと考えてみました。最初はFacebookに書いてたんですが、ちょっと内容があれなんで、ブログで独り言。

 

 

 

まず「共食い」、しかも「人間が人間を食べる」ということから始めてみます(いきなりグロくてすみません)。それがなぜそれほどまでに忌まわしい行為かとされているかを考えてみると、

 

「食べる」の前提である「殺人」を忌み嫌う

「自分が食べられる可能性」への恐怖

「種の保存という目的と矛盾する」ことへの本能的拒絶

 

っといった理由が考えられると思います。

 

つぎに人間以外の「共食いをする動物(例えばカエル)」を見るときもやはり人間は嫌悪感を持ちますが、その理由は?

 

人間同士の共食いと比べると「人間である自分が食べられる可能性」はゼロですから、その分の嫌悪感は差し引かれるはずです(カエルが人間を食べるとき、それは共食いではありませんから)。また種の保存という点でも、自分は別の種に属するので「勝手にやってろ」ぐらいの気持ちで納まります。それでもどこかに「共食い」を嫌う感情が人間にはあると思います。

 

ここまできて何か他にもっと決定的なものがあるんじゃないかと考えて結果、

 

「感情共有している対象」を殺害し捕食する、

 

というのがあるのではないかと思ったのです。

 

人間はもちろんのこと、感情をもっているされる動物の個体の間には、程度の差はあるけれど「感情の共有」が存在しているはずです。犬が二匹じゃれあったり、ペンギンのつがいが卵を一生懸命育てたり、狼が群れで狩りをしたりする時、そこに感情の共有(人間の想像も含めて)があるとされます。

 

感情の共有は同種間では異種間よりは多いと考えられれますが、異種間にも存在するようです。一番分りやすい例が、人間が犬にエサを上げて犬が喜び楽しい感情を共有する。よくは知らないけれど、人間を除く異種間同士での感情の共有は存在するかもしれません(共生という仕組みが存在します)。

 

というわけで、人間は感情共有している(できる)個体間で「捕食」が起こることをとても嫌うのではないかと思うわけです。

 

そして感情の質が高く、その共有の結びつきが強いほど、嫌悪する感情エネルギーも多くて強いと思うのです。例えば、同じ種のアメーバAがアメーバBを食べるのを見るときと、人間に近いとされる種の猿Aが猿Bを食べるのを見るときとでは、嫌悪感の度合いは異なり、猿のケースの方により嫌悪感をいだくと思います。

 

では「共食い」から離れて、異種間での捕食、とくに人間が他の動物を食べるパターンを考えてみます。

 

人間はいろんな動物を食べますが、国や文化で食べる対象が様々です。牛、馬、豚、羊、鶏、魚、昆虫などなど。

 

そして、食べていい動物と食べてはいけない動物もそれぞれで、国や文化の間では正反対になるケースもあるようです(牛を食べず豚を食べる vs 牛は食べるが豚は食べない)。

 

ここでは「なぜ食べるか」ではなく「なぜ食べないか」を考えてみようと思います。「なぜ食べるか」はおおよそタンパク源として、という理由で、中には珍味といった理由もあるでしょうが、概して「空腹を満たす」という理由が最大のものでしょう。

 

なぜ食べないか・・・ 宗教などの枠組みで食べない、という理由が多いようです。ただ、ここではそういった行動を制限する枠組み、つまり「食べたいと思わなくもないけど食べてはいけないとされているから食べない」ではなく、自主的に「食べたくない」と思う理由を考えてみようと思います。

 

昆虫を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)

魚を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)

鶏をたべたくない(もしくは食べる人間を嫌う)

牛を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)

馬を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)

犬を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)

 

ここでは意図的に一般的に信じられている知能のレベルで低いものから高いものを順番に並べてみました。

 

それぞれの行を読みながら自分に沸き起こってくる嫌悪感は下に行くほど強くなるようです。一般的にもおおよそ同じだと思います。

 

これはなぜかといういと、知能→感情がある→存在する感情を共有できる

 

ということだからではないか、っと思うわけです。

 

この図式、別の言い方をすれば「知能の低い動物は食べてもいい」といっているわけですね。例えばイルカや鯨を捕食することに反対する人はよく「イルカは実は人間なみに賢い」という風に言いますが、それはこのパターンに沿っているわけですね。

 

ちなみに「嫌悪する」は捕食の主語に向けられる感情ですが、目的語(食べられる方)に向けられる感情は「同情」です。 食べられる牛に対する同情の念、食べられる豚に対する同情の念、食べられる犬に対する同情の念、それぞれあります。感情共有できる、知能の高い動物が食べられることの方がそうでない場合より人間には耐えられない同情の念を引き起こすわけです。

 

話を戻して「感情を共有」できるかどうかのパラメーターが「食べていいか、食べてはいけないか」(食べられたときに同情を得れるか得れないか)を決定するならば、人間は生存本能として「感情の共有ができること」を積極的にアピールするはずです。逆に感情の共有をせず、同情を得られない状態の時はどうでしょう。人間は人間同士の共食いをしないので(ありがたい!)食べられる可能性はないけれども、「そうでなかったら食べられてもかまわないぐらいの存在」と思われるのだとしたら大変です。

 

人間がソーシャルネットワークなどで自分の体験や感情を共有する動機のひとつに、こういうものがあったりするのかもしれないな・・・などと考えていました。