高校までは日本でした。となると小・中・高、それにいくつかの塾を含めて、多くて20人ぐらいの先生方にお世話になったのかな。
そのぐらいの数になると私の先生に対する評価・採点も正規分布、あの偏差値で有名な山のようなグラフ、を描きます。
好きだった先生、嫌いだった先生、教え方のうまい先生に下手な先生、授業が面白い先生やつまんなくていつも寝てた先生。説明が分かりやすかった先生や何のことかさっぱりわからないせんせい。
でも、どの先生が良くてどの先生がダメだったとかいう話ではなく、全体的な「山」が左寄りだったというのが私の総合的な印象。
もちろん通ったのはすべて公立の学校で、けっして有名私立の進学校であったりはしないので、ある程度の質の低さはしかたない。自分自身が授業を聞いてなかったというのも当然多くあり、それに関しては自己責任以外の何物でもない。
だけど、この歳になって、おそらく当時習った先生方の平均年齢に達したかもしかしたらそれ以上になった自分からみて「先生方、もうちょっとやりようってものがあったんじゃないですか?」っと思うようになってきたわけです。
私にはいくつか長い間よく分からなかった内容がある。特に算数・数学、それに物理などの理系科目。
例えば、三角関数。つい最近まで自分で勉強しなおすまで本当になんのためにそういうものがあるのか理解できなかった。
もっと基礎的な、割合や分数のあたりも実は自分はあまりセンスは良くない方。分数で割るときにひっくり返してかける、というのも逆数ですっきり理解できるようになったのは最近学び直してから。
対数もよく分かってなかった。これはコンピュータサイエンスを学ぶときにはじめて理解できたけど、それでも最初はいくらかの恐怖を感じていたのを覚えている。
微分積分に関しては100%自己責任。高校三年の時、後半ほとんど学校に行かないでゲーセンに行ってたから・・・(でも最近微分の勉強から始めたらなんだそういう事、って感じで、まぁ基礎の部分だけですが、わかるようになって嬉しい気分です。これはプログラミングで関数をよく使うのが理由のひとつでしょう)
まぁとにかくそういう「よく分からなかったもの」に対するコンプレックスは私はかなり長い間もっていた。20歳ぐらいにオハイオ州にいたころ、大学の友達のアパートに遊びに行ったとき友達同士でPascalというプログラミング言語のクラスの宿題がどうのこうのと話しているのを横で聞きながら、ああそんなわけの分からない難しいことをこの人たちは習っているんだ・・・っと関心というより劣等感をもったのを覚えている。
今ではPascalどころかC++を大学院レベルで教えた経験を持っていたりで、そのとき感じた劣等感が単なる妄想だったことはいま思えば間違いない。
先生の話に戻る。
当時の教え方をすべて覚えているわけではないけれど、いくつかのパターンを思い出す。
- 子供が興味をもつような具体的現実的な問題を解説することがない。
- 子供が本当に理解しているかどうかの確認をする欲求がない。
- 子供がすでに知っていたり体験していたりする事例をたとえにして理解につなげることがない。
- 手や体を使った体験的な学習や授業の進め方がない。
- 暗記をすることを良しとする。
- 長期的な戦略もないし、長期的な子供の学習面での成長に関心がない。
- 成績の評価に連続性がない。カリキュラムごとのテストの結果のみがその生徒の評価。
- ユーモアがない。
上のすべてに対案を示すのは大変なんでしないけど、例えば、三角関数を例にとるならば、
まず子供の興味をかきたてるために実際にどんな問題が三角関数を使えば解決できるかを1時間の授業を丸々使ってでも解説していただきたいと思うのです(まぁそれが組織のルールとして出来ないんでしょうけど・・・)。
こういうのはどうでしょう?
みんなはアスレチックジム、好きですか?どんなのが好き?先生はあの、高い木からロープで滑り降りてくるのが大好きです。しかも水の上を降りてくるようなのがあったら楽しくない?で、ある湖のあるアスレチックジムがあったとします。湖のほとりに高い木があって、その木の上の方から湖の上を渡って反対側のロッジの近くまで来るとします。ロッジの着地点でこういうので角度を測りました(そうやって、分度器に割りばしをはさんだようなものを持ち込みます)。
クラスで実際に黒板に絵をかいて、木と湖と分度器ぐらいは表現できます。これらを生徒に書かせるとより興味がわくでしょう。
さて、木の上から着地点まで鋼鉄製のロープを渡すんだけど、これが高価なのできっちり測ってから買いに行きたいです。どうしましょう?
ここで、おそらく湖をボートか何かで漕いで木の根元から着地点まで測ったらいいんじゃないの?といった意見を出す子もいるかもしれないし、そういう今習っている内容とが別の解決方法も授業で話すべきだとおもう。ここでピタグラスの定理でロープの長さを出せることを示せばより有機的に授業内容が理解できる。
湖をボートで漕いでは正確には測れない、という流れにして、さてどうしましょう?となる。ここまでに三角関数の「さ」の字もなくてもいいと思うのです。
頭と、できれば体にしっかりと、どんな状況でどういう風に困っているか、それがまず明確にイメージが出来ていない状態でサイン・コサイン・タンジェントされてもさっぱりわけが分からず、暗記嫌いな子(それが普通)には苦痛そのものです。
こういった工夫をする自由って、日本の学校の先生にはないんでしょうか?
かりにこの後の成績が良くない子でも、それは授業を聞いてなかったとか、病気がちで休んでしまったとか、いろんなケースがあったとしても、それでもしっかりイメージが残っていれば後からいくらでも追いつけます。ネットの時代、楽勝です。
最悪なのは教科や内容に対して嫌な印象を持たせてしまったり「俺(わたしには)には分からない」という劣等感を持たせてしまったりすることです。そういう印象やイメージは本人の能力と全く関係がない可能性が十分あるから。
子供の成長はなだらかだったり急だったりはするけれどカーブを描いて大きくなっていきます。そこに「テストの結果」という直線を引いて、そこで「出来る子・できない子」と分類わけするのは大人の都合であって、子供はただ個人の個性的な成長カーブをたどっているに過ぎない。そういう個人差をカバーしてあげられるのが人間である先生の仕事です。
もうすぐAIがいろんな仕事で人間の肩代わりをするようになっていきます。画一的、規格的な授業と採点・評価ならAIの方がもっと安く素早く正確にするようになります。そういう状況になったときに重宝されるのはどんな先生なのだろうかと考えます。
おそらく最近は、私が習ったころの先生とは変わってきているに違いありません。でも、学校の教科書や宿題などをみる限りではそれほど大きく変わったようにも思えません。
親も昔のように先生と学校を絶対的なものとして見る傾向が薄れてき始めているように思えます。例えば職種によっては学歴をほとんど考慮しないものすら出てきました。
親としての私も、子供の学校でのパフォーマンスに関しては柔軟的に見ようとしています。特に、良い成績が取れなかったものに関して、決して責めたり追い込んだりしないように気を付けています。私も子供のころに劣等感をもつかわりに「大丈夫、そのうちわかるようになるし、自分で勉強すればいくらでもわかるよ」っと言ってもらえたら、あと何年か早くコンピュータサイエンスを学ぶようになっていたかもしれないな、と思うから。
また若い学生さんたちの先輩としても、ハタチそこらで自分の能力に対して断定的そして限定的な評価を下さないよう助言してます。